出典:ALBUQUERQUE AREA SOUTHWEST TRIBAL EPIDEMIOLOGY CENTER
疫学という学問をご存じでしょうか。
現代では、人の身長・体重・性別・病歴・住んでいる地域・所得・学歴…すべてがデータ化できますよね。
そして、人間を「集団」として扱い、例えばこの地域は富裕層が多いとか、肥満率が高いとか、そんな具合に集計されたデータで物事を扱うことが大変多いです。
そういった、集団の属性を集計して分布を算出する学問がご存じ統計学。
算出された結果から、感染症やその他の病気・事故、地震の要因を探るのが疫学です。
疫学は私たちの健康を語るうえで欠かせない学問です。
今回は、疫学のはじまりとなった事件を中心に紹介していきます。
目次
疫学とは
上述しましたが、一応学術領域の専門家として、学会で公式に定義されている「疫学とは」をお伝えいたしますね。
日本疫学会によると、疫学とは「明確に規定された人間集団の中で出現する健康関連のいろいろな事象の頻度と分布およびそれらに影響を与える要因を明らかにして、健康関連の諸問題に対する有効な対策樹立に役立てるための科学」です。
難しく聞こえますが、要するに、健康被害を食い止め方法として、起こっている健康被害の地域や人の属性などの情報から要因を見つけるという学問です。
その他、国際疫学会でも違った言い回しで定義がされていますが、疫学に関して、その学問が指し示す内容は同じです。
疫学の始まりはコレラの研究から
疫学の祖といわれているのがJohn Snow(ジョンスノウ)です。
彼は1813年に生まれたイギリスの医者で、医療現場の衛生管理のリーダーでした。
彼が疫学・医学史の歴史で有名になった事件がブロード・ストリート事件。
ブロード・ストリートで大疫病が発生
1854年、ロンドンのBroad Street(ブロードストリート)で、激しい下痢をともなう謎の病気が大流行しました。
出典:Broadwick Street(From Wikipedia, the free encyclopedia)
この疫病は後にコレラであったことが分かりましたが、当時は原因不明でソーホー地区は大パニック
8 月末に発生した謎の疫病は、最初の3日間でブロード・ストリート周辺に127 人の死者を出したのです。
その後、9月10日までに500名が死亡しました。
死亡率はなんとソーホー地区全体の12.8%に達し、終息する9月末までに出た死者数はなんと616名。
コレラとは
ここでコレラの基本情報を。
コレラとは経口感染によるいわゆるコレラ菌を原因とした食中毒です。
潜伏期間は1 日以内で、その後ひどい下痢症状が現れます。
重症の場合は、嘔吐・下痢症状がひどくショック状態にもなり、病期中の下痢便の総量が体重の2 倍になることも珍しくありません。
下痢便が大量でひどい脱水状態になってしまった場合、意識がなくなったり痙攣が起こったりもします。
こちらは、コレラで運ばれてきて高度の脱水症状を起こしている子供の写真です。
出典:国立感染症研究所「月曜日に高度の脱水症状を呈して入院(眼窩がくぼみ、スキン・テンティングが著明)」
コレラの致死率は、何も治療しなかった場合70%~80%と非常に高い感染症で、感染症法では第3類感染症に指定されています。
第3類感染症とは、「感染力、罹患した場合の重篤性等に基づく総合的な観点からみた危険性は高くないが、特定の職業への就業によって感染症の集団発生を起こし得る感染症」と定義されています。
ちなみに、この感染症法で分類されている感染症は第1類~第5類まであり、第1類感染症が最も危険が高く、感染力・および重篤度の高いペストやエボラ出血熱などがあります。
日本での患者は海外からの持ち込みによるものがほとんどで、年間数人の患者報告がある状況で、それも減ってきています。
出典:特集「コレラ2002~2005年」:病原微生物検出情報月報(IASR)2006年1月号, Vol.27, p 1-2.より横浜市衛生研究所が作成
日本では発生が少ないものの、アフリカ、アジア、中南米の一部の地域で流行しています。
出典:厚生労働省検疫所「感染症についての情報 コレラCholera」
なお、厚生労働省検疫所ではコレラについての要点をこのようにまとめており、患者報告がある国への渡航の際は注意するよう呼びかけています。
- コレラは、急性の下痢を起こす疾患で、治療しなければ数時間で死に至ることもあります。
- 世界では、毎年、推定で130万人から400万人のコレラ患者が発生し、21,000人から143,000人が死亡しています。
- ほとんどの感染者は、症状が軽いか無症状で、経口補水液を使ってうまく治療することができます。
- 重症患者には、点滴治療と抗生物質で速やかに治療することが必要です。
- コレラやその他にも飲用水が媒介する感染症を制御するためには、安全な水と衛生環境を確保することが重要です。
- コレラの感染対策の追加手段として、経口コレラワクチンがあります。しかし、これは従来の感染対策に代わるものではありません。
- 安全な経口コレラワクチンが、コレラ発生のリスクが高いことが知られる地域では、コレラの集団発生を予防・管理するために水の安全性と衛生環境の改善とともに使用されるべきです。
引用:厚生労働省検疫所「コレラについて (ファクトシート)」
ブロード・ストリートでの疫病の調査がはじまった
大流行した疫病の原因を追究するために、調査が始まりました。
それまで疫学という学問はなく、本来病気の原因を追究する方法は臨床研究しかありませんでした。
しかし、刻一刻と患者が増える状態に対策を打つためには、時間をかけて調査をしている場合ではありません。
ジョンスノウは、原因の菌がわからなくても、疫病の原因がどの地域で、どういう経路で感染しているかがわかれば対策が立つだろうと考えたのです。
これが、現代の感染症を拡げないための対策の基本である「感染経路の遮断」。
実際にジョンスノウが行ったことはこちら。
- コレラで死亡した人の死亡場所を地図上にプロットする
- コレラで死亡した人の家で死亡するまでの状況や環境について聞き取る
- 似たような状況にいた人で症状が出ている人と出ていない人の違いを探る
- その違いを仮説として、今度は大規模な人数のデータを収集して検討する
ジョンスノウが実際にプロットした地図はこれとはまた別ですが、わかりやすいのでこちらでご説明します。
地図上に死者と井戸の位置をプロット
ジョンスノウは、死亡場所を地図上にプロットするのと並行して、地道な聞き取りによって浮かんできた疑念「井戸水が怪しい」というわけで、井戸の場所にも注目しました。
赤マルが死亡した人、青が井戸のある場所です。
出典:WALFLAM「John Snow’s Cholera Map in Mathematica v10 format」
プロットを見てみると、特定の井戸の周辺に死者が多く出ていることがわかりました。
地図上の真ん中に位置している井戸ですね。
問題視された井戸の使用をストップ
コレラが流行り始めて、その流行の強さから、人々の間ではこれは「空気感染だ」とする世論が高まっていました。
その中、ジョンスノウは調査を続け下記の主張を続けました。
- 同じ地域内であっても(すなわち同じ空気を吸っていても)、明らかに死亡が集中しているエリアとそうでないエリアがある
- 同じ道路の両側で死者数がこれだけ偏るのは、それぞれの側の住民が用いている井戸が違うから
この地域には2つの水道会社がありました。
ジョンスノウは、井戸によってその周辺の死亡者数に差がでたのも、使っている水道会社の違いだと推理しました。
実際に、人々が使っている水道会社別に死亡者数を出してみるとこのように差は一目瞭然になりました。
ここまでのジョンスノウの調査と推理で、疫病の原因の菌が何であるかは全くわからなかったものの、感染経路であった問題の井戸の使用を禁止することで、それ以上のコレラ感染拡大を抑えこむことに成功したのです。
後にわかったこと
ちなみに、水道会社「Southwark & Vauxhall」は、川の下流を水源としていて、水道会社「Lambeth」は、川の上流を水源としていました。
のちの研究で、コレラは水中に生息し、コレラ患者の排せつ物に含まれ、コレラ菌の存在する水を飲むことで発症することがわかりました。
コレラ菌を発見したのはドイツの細菌学者コッホです。
が、それは事件の後約30年後のはなしでした。
原因菌がわからないと治療法の確立は難しかったものの、流行の拡大がストップできたのは、ジョンスノウの功績であるといえます。
なお、1854年ロンドンでの大疫病は、ブロード・ストリートの井戸ポンプ近くに住んでいて、最初の患者(指針症例)であった生後5ヶ月の女児から広がったとされています。
下痢で苦しむこの女児の、オムツの洗濯に使用した水を母親が井戸ポンプ近くに捨てたことが感染拡大の発端となりました。そして女児の父親も終息近い9月19日に亡くなり、40番地で始まった大疫病は40番地で終わったと語られています。
おわりに
ジョンスノウの疫学的なアプローチはその後の医学界に大きな影響を及ぼしました。
100%原因がわからなくとも、疫学的な調査によって起こっている健康被害を抑えることは可能だということがわかったからです。
今日、疫学の手法は、「たばこと癌」や「学歴と所得」といった疫学を代表する研究など多様に発展しています。
原因はさまざまに考察されており、それらの追究も進んでいますが、最新のあっと驚くような関連が世に出るのは疫学による研究結果が一番早いのだろうと思います。
今後も興味を引くようなおもしろい疫学研究があれば発信していきますね。
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